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83.上級学校進路調査名簿

 

 大正期の後半から昭和の初期にかけて、中学校の学校数、生徒数は急激に増加した。中学生数においては僅か数年で倍以上に膨れ上がり、現行の「中学校令施行規則」では対応できない状況であった。そのため、昭和六年一月「中学校令施行規則」を改正し、新しい状況に対応できる中学校の再編成をすることになった。

 この改正では、中学校上級学年において、学科課程を第一種と第二種に分けて編成し、どちらかを選択させることによって、中学校教育の持つ二つの機能を充足させようとした。中学校卒業後、直ちに社会に出る生徒を教育する第一種課程と、卒業後上級学校に進学する生徒を教育する第二種課程とを設けている。

 順天中学校の改正後の課程を見ると、第四年次から第一種・第二種の区分が行われ、第二種では第一種に比較して、国語、数学、英語がそれぞれ一時間づつ多くなっている。それに対し、第一種では、実業科目の選択によって二単位が増加している。

 その実態を知る資料として「上級学校志望者報告控」という公簿が昭和八年度から十二年度までと、十四年度、十五年度の六冊が残っている。この中の昭和十四年度卒業生では、三十名が第一高等学校を始め、浦和高等学校、新潟高等学校、弘前高等学校等を希望していて、その他ほとんどが私立大学を希望していたことが公簿に記載されている。当時の順天中学第五学年の人数は、二学級約百名前後であったから、高等学校への進学希望者がいかに多かったかが解る。

 また、第一種・第二種課程による卒業生の全体の進路状況を知る重要資料として「卒業記念調査表」がある。これは昭和十四年度から十六年度までの三冊と、昭和十八年度の合計四冊が現存している。この中の昭和十五年度の「卒業記念調査票表」によると、卒業生の九十八名中、進学を希望する者が八十七名もおり、その主な進学希望校をみると、早稲田十六名、第一高等学校四名、医学系学校に十名、その他慶応や明治を始めとして各私立大学等にも多数希望している。また、地方出身者も多く、地方の高等学校や大学の専門部に進学を希望していた記録がある。その他、本土だけでなく大陸等の出身者も熱心に勉学に励んでいた様子が「卒業記念調査表」に記載されている。

 一方、併設されている順天商業学校では、主に卒業と同時に社会に出て活躍する者が大多数を占めていた。したがって、順天学園に入学を希望する者は、自分の将来の進路に応じて、入学を順天中学校か順天商業学校かを選択すれば良いのであって、一つの学園内に二つの学校を所有する結果であり、利点でもあった。

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