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82.順天商業学校の設立

 

 関東大震災後の区画整理により西神田に新校舎が完成した翌昭和四年に、学則定員の増加を認可された順天中学校は、最大九百五十名の生徒の在籍を可能にした。

 しかし、その年の米国ウォール街株価暴落に端を発した世界恐慌が日本にも波及し、昭和五年に金解禁を断行した日本は昭和恐慌に陥っていた。しかも、学校の増設も相まって、震災後毎年八百名を超えていた全校生徒数が昭和七年には六百名程になっていた。新校舎移転から僅か三年しか経っておらず、このままでは、学校経営においては重大な局面を迎えることは必至であった。

 校長松見文平はこの危機を打開するため、実業学校の人気などから、昭和八年順天商業学校を設立した。これにより、順天には就学年齢を同じくする五年制の全日制学校が二校存在することになった。

 この順天中学生と順天商業生を見分ける手っ取り早い方法が制服であった。中学の詰襟の制服に対して、商業は当時としては大変に粋な背広にネクタイ姿であった。校章に関しては商業に『商』の文字が入っているものの、中学と同じ北斗七星のデザインを用いており、校歌や校訓にいたっては中学・商業とも同じであり、更に校長から教員まで両校を兼務していた。また、運動部の校内クラス対抗試合も共同で行われており、中学・商業それぞれが独立した校風を持つと言うよりも、むしろ順天学園としての結束の方が強かったようである。

 順天商業学校は後に財団法人化される順天中学とは別の財団法人として組織された。戦時中は、国家の要望によって順天工業学校を併設し、戦後は、学制改革により新制順天商業高等学校となり、昭和二十六年には財団法人から学校法人に組織変更した。順天商業学校は、設立以来空襲による校舎消失後も順天中学と運命をともにしてきたが、昭和二十八年高田外語学校に継承され、弥久茂高等学校、高田高等学校と校名変更され、昭和四十年代半ばには生徒数の減少により、休校状態となり、以後、現在でも休眠校となっている。

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