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84.学友会誌「北星」

 

 大正時代すでに各学校では、生徒の健全な育成に不可欠な部活動が盛んに行われていた。順天中学校においても、特に関東大震災後、放課後の部活動は、普通授業と共に車の両車輪の如く活発に行われるようになっていった。

 やがて順天中学校では、十以上の部が設立され、それらの各部を運動部と学芸部の二つに分類し、この二部を持って「学友会」と称していた。学友会では、機関誌を発行しており、誌名を「北星」と命名した。「北星」とは、順天中学校の校章である北斗七星の二字から取ったものである。

 学友会誌「北星」は、各部の代表者によって編集委員が構成され、監督教員のもとで生徒達が主体的にその監修にあたっていた。「北星」の発行は年一回で、それ以外にも「北星」の小誌である月刊誌も発刊されていて、同一名称である「北星」を使用していた。昭和八年に順天商業学校が設立されると、中学校・商業学校の学友会は、ますます盛んになっていった。

 「北星」が発刊されて各部の志気が大いに上がり、大正末期から昭和初期にかけての順天中学校では、相撲部、バスケット部、剣道部などの運動部が、立派な成績を残している。運動部の活躍の背景には、当時順天中学校が持っていた千葉県興津町にある臨海施設が機能を発揮していたからである。臨海施設の建物は木造二階建てで、一階は百畳、二階八十畳の十分なほどの広さを持っていた。しかし、生徒の定員増加や、各部の活発な活動により、この施設だけでは収まらず、近くの民宿等を利用していたこともあった。

 学芸部においては、弁論部が関東で上位入選を果たし、そして、当時創部間もない英語部は、都内の中学校に僅か十二校しか存在せず、その中でも、優秀な成績を修めていた。また、公認外にもいくつかの部が設立されており、昭和十五年当時には、大変ユニークな将に時代を象徴している軍事鳩通信部の存在が記述されている。

 「北星」の内容構成については、昭和十四年を例に取ると、順天中学校と順天商業学校の各学年の生徒が代表となり、寄稿し「文苑」「詩苑」を担当し、時事・雑感・旅行などを掲載していた。また、「報告」の欄には校報・会報・部報があり、それぞれの記述を載せている。しかし、学友会誌「北星」は一号から昭和十八年三月の第二十号を最後に、太平洋戦争の激化に伴って発刊されなくなっていった。

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