81.西神田校舎の完成
東京では、大正十二年の関東大震災の教訓により、大規模な区画整理事業が行われていた。もともと神田神保町界隈は関東大震災以前まで、東京の中心的な賑わいを見せていたが、その後は銀座にその地位を譲っていくことになっていった。 移転先の新校地は、表猿楽町七番地(後に町名と地番変更によって、西神田一丁目八番地となる。)で、以前この地には、旧仏英和高等女学校(現在の白百合学園高等学校)が所在しており、同校が大正十五年に九段へ移転した為、区画整理にあわせて、この地に順天中学校に移転命令が出されたのである。 この周辺は、神田教会を中心として閑静なたたずまいであるのと同時に、神田高等女学校や水原産婆学校などがあり、従来から女子校的な雰囲気を漂わせていた。しかし突然、黒学生服の男子校が移転してきたのであるから、この地域の環境を一変させてしまった事は容易に想像できる。 昭和三年八月、待望の新築校舎が完成した。校地面積は、「中猿楽町四番地」が五百十坪であるのに対して、「表猿楽町七番地」は四百八十坪で、三十坪程減少しているが、鉄道の水道橋駅近くに位置し、利便性は格段に向上した。校舎施設は、普通教室十九室、特別教室三室、合計二十二教室、更に、地下室の五十坪は生徒の控え室と購買部を配置し、校庭の面積は二百五十坪となり従来よりも広くなった。全て文部省の公的融資を受けて校舎は完成した。 やがて、新校舎建設から六年後の昭和九年に創立百周年記念事業の一貫として、「百周年記念館(講堂)」を建築した。この建物は神田教会側に建築し、鉄筋三階建ての小さな校舎であるが、後の太平洋戦争の空襲でも奇跡的に残り、現所有者は東光電気工事株式会社であるが、現在もなおそのままの形で使用されている。本学園では創立百六十周年記念事業の一貫として、六号館講堂を建築した際、その現在まで残っている百周年記念館の「丸窓」を東光電気工事株式会社から寄贈を受け、六号館講堂に移設している。 今でも権現坂を上り切る途中で見える六号館の丸窓は、神田時代からの歴史的シンボルである。
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