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80.校地の移転

 

 震災後の校舎は復興資金を元に再建されたものの、数ヶ月経ってから、バラックのような校舎を造るのがやっとであった。

 震災後に「都市復興計画法」が出され、焼失区域の大部分に対し、宅地の利用増進のため、土地の交換・分合・区画形質の変更等を行うと同時に、道路・運河・公園などの新設拡張のための用地獲得が計られた。東京市街は、この土地区画整理事業によって画期的変貌を遂げる事になる。

 昭和二年十月二十九日明治四年に大阪から移転して以来、実に五十七年間に渡って本拠地となった神田区中猿楽町五番地の順大中学に移転命令が及んだ。移転先は表猿楽町七番地、旧校舎の撤去期限は昭和三年二月中とのことであった。ところが、新校舎の完成が撤去期限後更に数ヶ月を要する為、仮校舎を麹町区銭瓶町一番地に建設して一時移転することになった。

 昭和三年四月二十二日にこの仮校舎で長年に渡って順天の参謀役として学校を支えていた教頭の菊池綱次郎の学校葬が行われている。当時の学校の様子を紹介したい。

 明治元年生まれの菊池綱次郎は、地元大分県の尋常小学校等で約十年間教員を勤めていたが、上京して順天求合社に入学し、明治二十九年三月中等部第二回卒業生となった。その後、東京物理学校(現東京理科大)・日本大学高等師範学校等に進み、明治三十七年三月から、母校順天中学校の講師となる。明治四十二年には正教員となり、松見文平校長を補佐して約二十年に渡って順天中学校の基礎を築いた。

 大正十四年度卒業生であり、昭和八年より三年間順天中学の教員をしていた伊藤氏は次のように述べている。

 「教頭の菊池先生は風貌魁偉大変恐いという定評がありました。生徒を叱る時は何故悪いのか理由を自問自答式に考えさせ、充分に納得させた上で許してくださった。怒鳴り声を発するようなことは絶対にありませんでした。実際は温和な方だったようです。先生の句に『薄くとも礼儀に厚し夏羽織』と云うものが有りました。」

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