79.順天堂の系譜
「順天」の名称は、福田理軒の号であった「順天堂」に由来し、塾名としての順天堂は天保五年から明治四年までの三十七年間に渡り、浪速で使用していた。明治四年に塾を東京へ移転すると共に、校名を当時の塾の中枢機関であった高等研究科の「順天求合社」に改称した。この「順天求合社」という名称の意味するところは、『自然の法則に従い、真理を探求する』という、同じ志を持った集団・結社を意味しており、順天堂塾が設立された頃より使用され、やがて研究機関として機能を持つようになっていった。順天高等学校の前身である尋常中学順天求合社においてもこの「順天求合社」の名称を継承し明治三十三年まで使用されていた。本学園から「順天求合社」の名が消えたのは大正八年のことであり、その後は中学において「順天」の二文字を継承し、現在に至っている。 同じ「順天」の名称を持っている教育機関に順天堂大学がある。その設立は天保九年、佐藤泰然が江戸薬研掘に蘭学塾である「和田塾」を設けて、医業と蘭学教育を始めた。その後、天保十四年に千葉県佐倉市に移り、医学塾と病院を兼ねた形で「順天堂」と名乗っている。明治期に入り、東京へ移転し、その御茶の水に位置する順天堂医院は、西洋医学を輸入紹介したことでも有名である。また、教育機関として、有名になって行くのは、昭和十八年の順天堂医学専門学校の設立から始まり、そして、戦後、順天堂大学を設立させている。 教育機関以外にも「順天」という名称を使用している二つの企業がある。一つは、明治十八年和歌山県で薬局として創業した「桃谷順天館」であり、現在は明色化粧品として有名である。もう一つは、明治二十六年日本橋に同じく薬局として創業した「津村順天堂」である。この会社は中将湯で有名で、現在では「株式会社ツムラ」に変更されている。 このように明治年間を通じて、日本の東西で「順天」という名称が医業や薬業において多く使用されていた。本校においても、理軒が学んだ天文学は、江戸時代一流の医者であった麻田剛立の流れを汲むものであり、さらに浪速医師の番付表にも、理軒の名がしばしば登場していることからも理解できる。いずれにしても「順天」と言う名称は「天の道に従う」と言う誠に深い意味を持っているのである。 |
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