77.東京商業学校との同居
大正十一年、順天中学校のある神田区中猿楽町五番地から、約三百b程離れた神田錦町にある「東京商業学校」(現東京学園高等学校)より、順天中学校に対して運動場の借用申し入れがあった。 当時、東京商業学校は、大正十年三月商業学校令が改正され、夜間甲種商業学校に昇格し、修業年限四ヶ年の学校になったことにより、体操の時間を設けなければならなかった。しかし、校地面積に限界があり、運動場を確保することが出来ずに大変苦労していた。 大正十一年四月一日に締結された契約の内容は、毎週三日午後五時半より午後九時十五分までの間使用を許可したものであった。賃貸料は一ヶ月金五十円とし、夏休みが入る八月は半額としていた。 この時期すでに順天中学校校内には「東京商工学校分校」が同居しており、東京商業学校が加わったことにより、三つの学校の生徒がローテーションによって順天中学校の施設を使用していたことになる。順天中学校の時間帯は、早朝から昼頃までとし、その後すぐに東京商工学校の授業が二時頃より入り、夜九時頃まで使用していた。さらに、午後五時半からは、校庭を東京商業学校が午後九時十五分まで使用していた。東京商工学校分校と東京商業学校とが重なり合う時間帯で、校舎と校庭を使用することで、全く無駄のないように順天中学校の一切の設備が使用されていたことになる。 しかし、翌年大正十二年九月一日の関大震災により校舎が焼失し、東京商工学校分校は消滅し、東京商業学校は京北商業学校内へ移って行った。 震災後の大正十三年一月、順天中学校の校舎が完成し、移転していた東京商業学校から再び順天中学校に借用の申し入れが来た。今度は校庭だけでなく校舎も含んでおり、校長松見文平はそれを受理している。 大正十四年九月には、私立学校の設立認可を受けた順天中等学校(夜間の補習学校)が設立され、夜間の教室は一階を東京商業学校、二階を順天中等学校と、分けて使用していた。賃貸料は、一階九教室で月四百円で、大正二年の賃貸料に比べはるかに高い金額で契約している。関東大震災の影響と大正期の強烈なインフレが建築資材を高騰させ、このような賃貸料を生んでいるのであった。 それ以後、順天中学校は昭和三年の都市復興計画での移転命令、同年の新築校舎の完成等で何度か移転しているが、常に東京商業学校を迎い入れ、その後二十年間という長きに渡って同居した。 やがて、昭和十八年六月、東京商業学校は目黒区下目黒に土地を買収して校舎を完成させ、順天中学校の校舎を去って行った。 |
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