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76.関東大震災A

 

 関東大震災における神田の被害は最も酷い場所の一つに数えられ、木造三階建てで、大正期を象徴するかの様なモダンな校舎はあっけなく消失してしまった。神田の大火災から僅か十年、またもや校舎は灰と化してしまった。そして何より順天生の多くが学校を去っていかなければならない状況に追い込まれた事は全く悲しい現実だった。(退学者二八六名中死亡行方不明者五七名)

 この様な状況下で、校長松見文平は先ず授業を第一に考えた。直ちに被害の比較的少なかった豊山中学校と交渉し、約四ヶ月に渡って校舎を使用する手配をした。一方、松見文平は当時神田区選出の東京市会議員を勤め、順天のみならず震災に対する復興委員としても活躍していた。(後にこの功労によって感謝状を貰うことになる)。

 また、罹災学校貸付金等の復興資金を用い、約三ヶ月で校舎を再建し、何と、一月には生徒を護国時の豊山中学から、中猿楽町五番地の再建校舎に呼び戻したのである。絶望の中からいち早く蘇った校舎で再び学ぶことが出来るようになったのは、当時の人々の復興にかける努力によるものであった。

 しかし、大正二年神田の大火災後に建てられた三階建校舎と比較すると、大正十三年震災後の校舎は、時間や資金等の制約の中、建築資材の暴騰もあって、二階建てでしかも二教室を増やしているため、校庭の面積は更に少なくなった。

 後に東京商業学校が夜間学校として順天中学校校舎を間借りすることになるが、その後身である現在の東京学園高等学校九十年史に当時の卒業生が次の様に述べているので最後に紹介する。

 『私が入学した大正十五年、学校は神田神保町の裏手にあった順天中学校の校舎を夜間だけ借りていた。木造二階建ての極めて粗末な、うす暗い電灯のついている各教室には生徒がぎっしり詰まって黒板を見上げていたものだった。校庭は申し訳程度にあるような狭いもの。……一組五十人が四列縦隊に並んで行進すると、すぐに校舎にぶつかってしまって、回れ右ばかりやっていた。』

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