75.関東大震災@
大正十二年九月一日、順天中学校では二学期の始業式が行われていた。その日の午前十一時五十八分、相模湾北西部を震源地とするマグニチュード七・九の大地震「関東大震災」が発生した。 地震は中央気象台の地震計を吹き飛ばし東京市、横浜市の大部分が廃墟と化した。地震の発生が昼だった為、火の始末が悪く、地震による直接の被害よりも、むしろ地震後の火災による被害が殆どであった。その死者の数、実に十三万人を越え、全壊全焼家屋は五十七万戸以上に上った。 同規模の大地震として、近年では「阪神淡路大震災」が記憶に新しいところである。死者・行方不明者合わせて五千人余、全壊全焼家屋は八万八千余で、関東大震災に比べ被害ははるかに小さかった。理由として、阪神大震災の発生時間が、まだ多くの人々が眠りについている午前六時前の早朝であったことも、大きな要因のひとつである。また古い木造家屋が並んでいた大正時代と、関東大震災で教訓を得た平成の近代家屋、都市計画の違いが、二次被害である火災の発生数を抑えたのであろう。 関東大震災の順天中学校は、直接の火元で無かったために職員が協力して学籍簿を運び出すことが出来たが、次第に火が回り校舎は全焼してしまった。 震災前の大正十一年の在籍数は七九四名であり、大正十二年の関東大震災後の東京府統計によると、五九四名と生徒数は激減していることが知られる。本校所蔵の除籍簿に拠れば、大正十二年九月一日より、十二月までの退学者総数は、何と二八六名にも上った。その殆どが関東大震災の影響に拠って退学を余儀無くされた者たちであった。退学者二八六名中、家庭事情による者一一三名、転校した者一一六名、死亡行方不明者は何と五七名も数えられる。退学者の中には田舎に帰って地元の中学校に転校した者もあったが、五年生の何名かは卒業を待たずに、中央・法政・慶応・早稲田等の各大学や第一高等学校へと進学していった。また、家庭事情による退学者中には震災によって稼業が思うようにいかず、経済的な理由に拠るものも多かった。 教育の場を失い、わずか四ヶ月に三分の一の生徒がいなくなったことは、学校経営に於いても重大な問題に直面したのであった。 |
前ページ | 次ページ |