トップページへもどる

74.大正デモクラシーと学生運動

 

 大正期の好景気は第一次世界大戦の勃発によって、日本商品がアジア市場に登場し、その結果、貿易の大幅な輸出超過となって現れた事による。

 しかし、大戦終結後、再び欧州諸国の商品がアジア市揚にもどってくると、日本経済は一転して苦境にたたされた。

一方、民衆に於ける民主主義は高揚していき、次第に政治・思想等の変化を求める大衆運動に発展していった。これがいわゆる大正デモクラシーと言われるもので、政治の目的が民衆の福利にあることを提唱して、大衆の賛同を集めた吉野作造が登場したのもこの頃である。

 大正期はまた、中学校の大衆化が助長された量的拡大期であり、学生運動が盛んとなった。順天中学においても大正九年十二月に七十五名の無期停学者を出した事件が起こった。

 朝日新聞に次の様に載った。

 『順天中学 同盟休校教頭及四教諭を排す(大正九年十二月十二日』

 「順天中学校五年生七十五名は十日から菊池教頭始め松見・新田・中村・井上の四教諭排斥の為同盟休校をなし十一日決起文に理由書を添えて校長に送ったが、前記五教諭は講義に不関心不誠実にして生徒の学力に毫も留意せずその外品性上にも生徒として忍びざる点が有ると云ふのが理由である。五年生は卒業前にその罪を暴露し偏に学校の刷新をしその後身生徒の為を思ふためだと語った」。

 『順天中学生 無期停学七十五名に(大正九年十二月十三日)』

 「順天中学校五年級生徒が菊池教頭外四教諭を排斥し同盟休校をなせるに対し学校側では十二日同級生徒百二名中七十五名を悉く無欺停学に処した。学生側は保証人会を開き善後策を講じてゐる」。

 『順天中停学生 復校許可 八名は拒絶(大正九年十二月二十一日)』

 「順天中学生の同校教員排斥問題は関係生徒七十五名の内五年生五十四名は無期停学、八名は退校処分に付せられし事件に就き生徒保証人は連日協議し学校側に対し交渉の結果停学者五十四名は二十一日午前九時より復校授業せしむる事となり一月十日より第三学期の試験を受くる事と決定せるが退校処分を受けたる八名は旧然復校を許さざる事となれりと」。

 十日間に及ぶこの事件も一応ここに解決をみた。大正デモクラシーと言う社会風潮の中で、順天中学生達の取った行動は、将に時代を反映するものであった。

160-74-1.jpg (69761 バイト)

160-74-2.jpg (56643 バイト)

                                                                                                                                          
前ページ 次ページ