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73.順天求合社の廃止

 

 天保五年八月二十六日和算の大家であった福田理軒によって、大阪南本町に順天堂塾が創立された。翌年からは、「順天求合社」とも呼ばれ、大阪では既に多くの門弟を抱え、その名を不動のものとしていた。

 明治維新により日本の近代化の幕は切って落とされ、明治四年九月、順天堂塾を大阪から東京に移転させると共に塾名を正式に「順天求合社」とした。教科も和算に加え洋算も教授する学校となり、数学・測量・天文を主たる学科としていた。

 明治六年四月には初代塾長の福田理軒から第二代塾長福田治軒へと経営が移行されたが、治軒は病気を理由に明治十七年十一月に引退した。その後を受け継ぐ第三代塾長は、後に順天の永い歴史の中で五十九年という最長期間、校長職を勤めた松見文平が就任した。彼は当時、生徒数の減少した順天求合社を建て直すため、自ら教員免許を取得するなどの努力によって、本格的な塾経営に乗り出したのであった。その後、明治三十五・六年頃までの約十五年間で、一躍東京中に順天求合社の名前を知らしめた。

 しかし、教育制度の確立は、他校に於いても同様、学校制度という軌道に乗らないものの存在を許さなかった。そのため、順天求合社のような、単なる上級学校進学のための予備校は、やがて「旧制中学校」に吸収されていく。明治三十二年頃より、順天求合社は教育の主体を順天中学校に移していった。校名も「順天求合社中学校」となり、その精神も中学部に受け継がれ、順天求合社は、夜間部のみの学校となった。さらに、明治四十一年には、規則改正を行い、御家芸の測量を中心として土木科だけの学科とした。大正二年の神田の大火災以後、生徒募集をしていなかった順天求合社も大正四年から募集を再開したが、時代の流れは専門教育を求めていなかった。

 やがて、大正八年、松見文平は、実に八十年以上に渡って使用された名門「順天求合社」の名前を廃止することになった。順天求合社が明治期を通じて順天中学の発展する基盤を築く重要な働きをしたことは、今日の順天の歴史が語っている。

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