56.生徒調査@
順天中学校は明治三十三年に「順天中学在籍生徒員数調」などの統計を東京府に提出している。これを見ると当時の生徒の実態を知る事が出来る。 この資料によると、全戸寄留者とは、家族単位で東京に移転し本籍を他府県に持つ者の事であり、表によると、百七十六名中の約半数が、他府県より移転して来た者によって占められている。また、他府県に本籍があり単身で上京して来ている者は、二百三十三名にも達している。 この明治三十三年五月一日の「生徒在籍員数調」の総数は四百九名であるから、単身で東京に出て来て下宿等をしている者は、実に全体の五十七%にも達している。東京に本籍を有する者は九十名で、何と全体の僅か二十二%に過ぎなかった。当時の東京への人口流入の様子が知られる。 この資料によると、当時の学校所在地である神内区に居住する者が多く、また、地方から単身で上京した者の多くも、学校近くに下宿していたものと思われる。これは学校の始業時間が午前七時からと早かったのと、利便性によるものと考えられる。 当時の入学案内書からその状況を知ることが出来る。明治二十二年十月に出版された「東京留学指針」を引用する。 「今日学舎ノ多ク存在スルハ東京府下ニテ神田区ヲ最トナス見ヨ神田区内ノ学舎ノ多キコトヲ五歩ニ一校十歩ニ一塾其ノ数ノ多キ遠ク他区ノ上ニ出ツルニアラズヤ其レニ随テ至ルトコロ下宿屋ノ設ケ無キハナシ」 神田区には学校が多く有ることによって、必然的に下宿屋も多かったのである。明治二十年代には多くの学校が寄宿舎を持っていたが、明治三十年代に入り学校制度が確立されると寄宿舎の多くは教室等の設備充実の為に転用され、上京する者は、下宿屋と言われる地元の業者に任せるようになっていった。 「神田区ノ如ク書生ノ集マル地ニ下宿屋モ随テ多ク至ルトコロ其看板ヲ見ザルハナシ ……下宿屋ノ最モ多キハ神田区本郷芝トシ小石川麹町等之レニ次グ是等ノ下宿屋ハ皆下宿屋ヲ以テ専門営業ナスユエニ平生下宿スル書生少キモ五・六人ヨリ多きは四・五十人アリトス」 当時神田区では千八百軒もが下宿屋を営業していたと言われている。順天中学校でも、生徒数全体の約六割は他府県より単身でやって来た者なので、皆下宿屋の世話になった。 |
前ページ | 次ページ |