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55.文部省の指導

 

 日本の明治期に於ける教育行政は、初等教育までは何とか自力で「国民皆学」の精神を貫き、教育施設の拡充を計って来たが、中等教育に至っては、その多くは、私立学校に頼らざるを得なかったのが実態であり、それは現在も変わらない。

 しかし近代国家建設の為には、これら教育機関も官立学校を模範として強力に行政指導をし、国家の統制下に置く必要性に迫られていた。そこで出されたのが、前号でも触れた「中学校編成及設備規則」である。

 本来、徴兵令によって中学校科程の学校を、甲乙の二種類に分類していた。甲種は文部省の認可を得た徴兵猶予の恩典を持った学校であり、乙種はその恩典を持たない学校であった。設立間もない順天中学校は乙種に分類されていたので、甲種に当る徴兵猶予の恩典を取得すべく速やかに書類を提出したのである。

 先ず、明治三十三年八月二十九日に校長松見文平は、東京府知事宛に徴兵猶予の書類を提出した。それから約五十日後に東京府の順天中学校に対する調査は全て終了し、それを更に東京府知事が、文部大臣宛てに調査報告書として、「特別な問題なし」と報告している。

 しかし、文部省は東京府知事からこの徴兵令認定の回答を受けながら、順天中学校に対して文部省の独自の調査を入れる事になったのである。

 調査がまとまった約二ケ月後、順天中学徴兵令に対する回答書として、明治三十三年十二月二十七日に、文部省は東京府知事宛に文書を提出している。

 概略は以下の通りである。

 一学級生徒数五十名を超える学級が四学級もあり、通常教室中で天井が低く採光も不十分の教室もある。又、特別教室がない。教科図書未認可のものもあり、学籍簿は整理されていない。等々、かなり厳しい指摘がなされた。結局、徴兵令上位認定は文部省によって認められなかった。

 この問題に限って、当時の東京府と文部省との間で何があったのかを知ることは出来ないが、東京府の面子も簡単に潰すだけの文部省が強力な指導権を持っていた事だけは確かである。文部省から東京府に送られた文章によって、以後順天中学校も襟を正し、校舎設備の拡充に努力をすることになった。この為、翌明治三十四年度からは順天求合社の正科と別科の募集を中止し、昼間は順天中学のみとした。従来有った寄宿舎も廃止した。

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