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57.生徒調査A
日本は日清戦争を経て、清国からの巨額の賠償金を利用した軍備の拡張と金融貿易などの面から、産業の振興による積極的な資金の流れは、企業の勃興を促進させた。
これにより、重工業部門では欧米のそれと比較するとかなり立ち遅れていたものの、日本の産業革命は明治三十三年頃に一応達成されたと言われている。
当時の国の発展と共に、学生達の生活はどの様であったか。明治三十六年に出版された「自活苦学生」の手引書を引用して見よう。 |
「明治二十九年の生活費 |
米一斗五升(一ヶ月分) |
一円六十五銭(上米) |
室代 五十銭 |
月謝 七十銭 |
副食物 四十五銭 |
薪炭油 三十銭 |
草鞋 二十銭 |
合計 三円八十銭 |
明治三十六年の生活費 |
米一斗五升(一ヶ月分) |
二円五十五銭 |
室代 一円 |
月謝 二円 |
副食品 六十銭 |
薪炭油 八十銭 |
草鞋 三十銭 |
合計 七円二十五銭 |
以上七年以前に於ける生活費と今に於ける生活費との比較であるが、之を以って正確な一ヶ月に於ける凡ての生活費と言うのではない。何となれば、以上記載の外に、尚ほ湯銭も入れば散髪銭も要る、煙草銭も要れば商法上に於ける費用も要るのだから」 |
当時、普通に生活するには、一ヶ月八円から九円はかかっていたそうである。中には六円で生活していた者もあった様だ。本校の当時の月謝は既に二円五十銭を越えており、ほんの数年前の明治二十九年には、月謝一円二十銭であった事から、月謝だけでも既に二倍以上になってしまった。当時の大卒役人の初任給は月約四十円であり、男子労働者の給与は、残業をしても月約十五円であった事から、学生がアルバイトをし、学問との両立は非常に困難であった事が理解出来よう。その為、学問を一時中断し、働いて資金をためてから再度中学校に入学する者も多かったようだ。苦学生の中には、志半ばにして病気となり、挫折した者も多かったであろう。
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