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54.校舎と運動場

 

 明治三十二年の中学校令改正によって、校名を変更した順天求合社中学は、施設・設備面での強力な規制を受けることになった。それが「中学校編制及設備規則」である。

 当時の学園の敷地は百八十坪と狭く、教室数も通常教室六つ、講堂一つ、特別教室二つと極めて小規模であったが、これは規則に則った最低限の施設だった。その後、教育の主体を中学校に移し、そこで生徒定員増加申請を提出し、生徒定員二百四十名から四百名に増員した。そして、明治三十三年順天中学校の生徒数は八学級、三百五十七名、教員十八名と何とか基準に達していた。以後大正二年まではこの程度の規模で推移している。

 この規則の第二条に定められた中学校の一学級の生徒数は、三十五名で特別の場合五十名を限度として規定されているが、予備校的な存在であった順天求合社では、一学級の人数が七十〜八十名は当然であり、一学級の最大収容人数は大教室で百八人と言う記録が残っている。もっとも大教室の大きさは、通常教室の二倍程だったが、それにしても教員一人の受け持つ人数としては、誠に多い人数であった。将に順天求合社は現代でいう予備校であったと言えよう。

 中学校令改正による教育施設の拡充には、都会に有る学校の宿命とも言える校地面積の限界があり、その対策にはいつも苦慮していた。何とか校舎・教室については一応の体裁を整えたものの、校地面積が百八十坪程度しかなく、校地内に於ける体操場の確保は不可能であった。

 しかし規定により、最低限二千坪の体操場を必要としていた。そこで、幸い同じ悩みを持つ大成中学校との連名により、神田三崎町三丁目の練兵場跡に、二千坪の敷地を借りた。

 その後大成中学校は昭和二十一年に神田三崎町を離れて三鷹に校地一切を移転してしまったが、当時の神田の近隣校である錦城中学校も加えて、昭和十年代には、「神田の大成・神田の錦城・神田の順天…」と、所謂る神田の三羽烏として大変有名であったと言われている。

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