トップページへもどる

53.校名の変更

 

 明治三十二年二月に「中学校令改正」が出され、順天求合社の本科及び別科と尋常中学順天求合社とは、ここでやっと教育制度上の明確な区分がなされるに至った。つまり、学校制度上、中学校が小学校と直結した為、上級学校進学の為の予備校的な存在であった順天求合社本科と別科は、その立場を失ってしまったのである。

 この「中学校令改正」の他に「高等女学校令」と「実業学校令」も出され、中等教育段階の三系統が確立された。これらは以後昭和二十二年三月に学校教育法が公布され、新制中学と新制高等学校制度が成立するまで、中等教育の基本を構成する重要なものであった。

 学校制度が確立され、中学校が多く設立されると、生徒数は増加の一途を辿って行った。明治三十一年と明治三十六年の全国中学校数、及び生徒数は次のようになっている。

<中学校数・生徒数>

 明治三十一年   一三六校

       六一、六三二名

 明治三十六年   二四九校

       九七、九八二名

 学校設置に伴い生徒数は急憎し、中学校数で一・八倍、生徒数では一・六倍となった。

 この中学校令改正によって、尋常中学校は中学校と改称する事になり、高等中学校は高等学校として独立したものとなり、「尋常中学順天求合社」は速やかに「順天求合社中学校」と校名変更する事になった。

 明治三十二年は学校制度の転換機であると同時に、順天求合社としても大改革を強行に行わなければならない年であった。「中学校令改正」と同じく出された「中学校編成及設備規則」によって、施設の不足は深刻な問題であった。そこで、実際には、昼間の部として運営していた順天求合社正科、別科と中学部を、一つに統合する形態を取ったのである。

 明治三十二年の校名変更は、中学校令改正による必然的なものであるが、翌三十三年の三月には、更に「順天求合社中学校」を、「順天中学校」と改め、以後、第二次大戦後の学制改革を迎えるまでの約四十七年間に渡って、神田の順天中学として多くの卒業生を輩出した。

160-53-1.jpg (87157 バイト)

160-53-2.jpg (126224 バイト)

                                                                                                                                          
前ページ 次ページ