52.尋常中学の実態
当時、神田仲猿楽町の校舎には、明治二十七年に設立された尋常中学順天求合社と、本科と別科を中心とする順天求合社の合わせて二校が存在した。 この尋常中学と順天求合社の別科を比較すると、尋常中学は修業年限五年であるのに対して別科は四年であり、教科内容は、別科が数学を中心とする内容になっているものの、尋常中学と比較して体育科目と社会科科目だけが不足した。その他はほとんど同様の科目構成となっていた。 本校所蔵の明治二十九年一月改正の「卒業証書割印簿」には、尋常中学として独立した項目に、明治二十八年三月から同三十二年三月までの卒業証書授与の割印が押されている。 明治二十八年二名(二) 二十九年三名(十二) 三十年十七名(二十七) 三十一年十六名(四十) 三十二年二十名(五十五) ( )内の数字は昭和十二年会員名簿に載っている卒業生数である。両者とも数字が一致するのは明治二十八年三月の第一回卒業生二名だけである。 この理由は、当時の教育システムによるものであった。つまり、四年からの編入生が多く、上級学校進学の為の実力さえ有れば進学は可能であって、必ずしも尋常中学卒業の資格を必要としなかったからである。当時小学校卒業後の進路は、尋常中学校そのものが学校制度として確立していなかったため、上級学校への進学予備校が、尋常中学校に代って大変栄えていた。 順天求合社別科と尋常中学との関係はこの事からも理解出来る通り、これらの進学予備校を尋常中学の規定に合うように、教科内容を修正して行くのが、当時多くの私学によって取られた手法であった。まだ明治二十年代の尋常中学校の数は大変少なく、尋常中学順天求合社の設立は、東京の私立尋常中学校として第九番目の設立認可であって、その後、尋常中学部分に強力な改革を迫られたのは、同三十二年の中学校令改正である。 |
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