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49.尋常中学順天求合社の設立

 

 明治二十年二月の別科(東京工業学校予備科)の設立によって、順天求合社は教科内容も幅広くなり、上級学校進学の為の実力を着実に養っていった。やがて順天求合社は、教育制度上の尋常中学部の設立を決定した。明治二十七年の事であった。

 当時の教育制度では小学校が尋常小学校(四年)と高等小学校(二年)に分かれ、同様に尋常中学(五年)高等中学(三年)に分かれていた。この尋常中学は後の旧制中学校であり、高等中学は後の旧制高等学校の事である。

 明治五年の学制発布から教育令と、教育制度の実施は着実にその成果を挙げた。小学校が整備され、義務教育制度の確立を見るに至った。こうして就学率が急速に上昇し、さらに上級学校に進学する気運も高まっていった。

 明治二十七年の学齢児童の就学率は男子七七・一%、女子四四・一%であって、総平均は六一・七%と急上昇していた。

 初等教育の普及と確立後は、自ずと中等教育に目が向けられるようになって行った。順天求合社も実質的な中等教育部門を担当する学校である為、当時の上級学校進学の予備校的な性格を、速やかに改革し、正統な教育制度上の尋常中学校に移行し、学校の安定を計る必要が生じた。 

 明治期の初等教育、つまり小学校の充実には目を見張るものがあったが、それに反して中等教育の場である中学校の整備は立ち遅れていた。実質的な中学校制度の確立は、明治三十年代に入ってからの事である。最初の学制発布でもそうであったが、この学制実施には相当の苦難が待ち受けており、徹底させるまでには尚多くの時間を必要とした。その最大の問題は、教育制度と理想との矛盾による財政的な問題であった。

 尋常中学順天求合社は、明治二十七年二月十五日付で設立願を申請し、東京の私立尋常中学としては、第九番目の学校となった。

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