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44.創立五十五周年式典

 

 順天求合社はもはや塾という形態を脱し、教育内容を整え、学校という形態へと発展していた。こうなると歴史と伝統ある順天求合社を世間に知らしめ、同時に今後の発展を願う必要が生じて来た。そこで明治二十一年八月二十六日、辻支部次官を招いて、創立五十五周年式典を卒業証書授与式と合わせて盛大に執り行なったのである。

 明治二十四年の「順天求合社沿革の大略」を引用する。

 『順天求合社ハ数学測量専門ノ学校ナリ而シテ社内ニ東京工業学校ノ予備科ヲ置キ別科卜称シ以テ正科卜別ツ厥初メ天保五年八月廿六日福田理軒学校ヲ大阪南本町四丁目ニ創立シ以テ算数ヲ教授シ……明治廿一年二月東京工業学校ノ旨ヲ受ケ該校ノ予備科ヲ置ク是年八月廿六日正科別科並ヒニ卒業証書授与式ヲ挙グ辻文部次官臨場セラル創立以来五十五年定是日ヲ以テ記念日卜為ス……』

 本校の創立五十五周年実施に当たり、お招きした文部次官辻新次は、明治四年文部省設置と共に七等出仕となり、又、開成学校に教鞭をとっていた。翌五年には、その後身である大学南校校長となった。更に同十九年三月に至り、伊藤博文内閣の文部大臣森有禮の下に文部次官となり、大日本教育会々長に選出された。明治二十六年には東京女学館々長を嘱託された人物である。福田理軒も明治四年に文部省に出仕している事から、その関係によって本校の創立五十五周年記念式典に参列してくれたのであろう。

 創立五十五周年とは実に半端な数字であるが、当時の時代背景を考えるに、この時期に絶対に必要な式典であった。明治廿一年と言えば大日本帝国憲法が発布される前年でもあり、日本も近代国家として、国家形態を将に確立しようとしていた時期でもある。当然の様に教育行政も新たな展開を見せようとしていた。そのような中で、順天求合社も新たな出発を誓い、内外に今後の発展を約して、創立五十五周年記念式典は厳粛に挙行されたのである。

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