43.東京工業学校予備科の設置
明治を迎え日本もようやく産業の近代化に着手する事となったが、当初は政府の手によって近代産業の育成が図られた。 明治十年代に入りようやく官営工場が払い下げられる様になり、政府による産業革命は着々と進められ、明治二十年代に入って各種の企業が勃興して産業の近代化と機械化が急速に進展した。このため、教育界に於いても実業教育振興の必要性が説かれるようになり、苦しい時代を乗り越えた松見文平にも、いよいよ幸運が巡って来た。 それは、順天求合社として中猿楽町四番地に校舎を新たにし、全ての教育条件が整っている中で、東京工業学校の予備科を設置する事になったのである。もはや塾教育に於いては、教育制度に則った教育内容と施設拡充が図られなければ生徒の入学は期待できなくなっていた。本校の例で知られる通り、明治十年からの生徒数の減少は、早急に寺子屋式教育からの脱皮を図る必要に迫られていたのである。 当時の順天求合社は原則として高等小学校卒業者か、又はそれと同等の実力を有する者を入学させていた。高等小学校を普通に卒業すると、年齢的には十四歳であって、明らかに上級学校への進学を目的とした機関として存在していた。もちろん、順天求合社は数学塾として塾の教育課程を定めていたが、東京工業学校の予備科を設置したことによって生徒数は急激に増加した。明治二十一年の生徒数は「文部省年報」によると、三百四十人と記載されている。予備科の設置によって、その効果が覿面であったことが知られる。 東京工業学校の予備科とは、形態的には東京工業学校受験コースであり、官立学校とはいえその繋がりは深く、教科内容に於いてもそれ相当の教育水準でなければならなかった。そのため、中等教育機関としての実力を養う絶好の機会ともなった。 この様に、順天求合社が明治二十一年に復活の機会を掴んだのも、当時の中等教育機関の不足が原因であった。 |
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