45.師匠と父の死
理軒と治軒が東京から大阪に引き上げたのは、順天求合社を松見文平に譲った翌年の明治十八年の事であった。大阪に再び戻った理軒は、東区の八軒家に住む事になった。大阪では三十七年間に渡り多くの弟子を輩出した理軒も、既に七十歳に達していた。今度は弟子の世話になる事になった。 そもそも当時の塾長交代の背景には、竹橋事件以来の陸軍省内部に於ける、測量関係者の不審な死亡事故が相次いで起こった事が、その原因であったとも言われているが、理軒と治軒の墓が見当たらないのもこの事によるものと思われる。 激動の時代を生きた福田理軒の生涯は、波瀾万丈であった。五十年前に誰がこの様な時代となるかを予測し得たであろうか。創立者福田理軒の功績は大きく、治軒と共に後継者松見又平を養成した事は適切な判断であった。理軒の墓が不明なことによって、没年についても様々な説があるが、明治二十二年に七十五歳で大往生を遂げたと思われる。 二代塾長福田治軒については、明治十七年以降の消息は良く判っていない。一説には秘境大台ヶ原の測量に従事したと言われるので、昭和四十八年頃に順天学園校史調査団が奈良県の大台ヶ原まで調査に行った際、土地の人からその昔治軒らしい人物の遺体が山から降ろされたと聞いたと言う人がいたが、その詳細は不明である。治軒は明治二十一年頃に没したと伝えられている。 松見文平は治軒・理軒の死亡について、各地にいた順天求合社の門弟から風の便りで知っていたものと思われる。治軒の没した明治二十一年に奇しくも松見文平の父、松見甲斉(積善)も中猿楽町四番地で没している。松見文平にとって明治二十一・二年に父と両師匠の死という悲しみが一遍に訪れた。三十歳間近の松見文平にとって、新たな塾経営に対する決心はこの時期に固まったのかも知れない。 |
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