42.順天求合社の再出発B
福田理軒らが創立した東京数学会社の雑誌廃刊後、その流れを汲む幾つかの会が結成されていたが、明治二十年四月、「数学協会雑誌」が創刊され、その中に松見文平も名前を連ねている。この雑誌に「数学雑誌の数」として次のように載っている。 「数学雑誌ノ数、東京数学会社雑誌、数理叢書談廃刊後ハ久シク数学ノ雑誌ハ絶タリシニ去年以来一時ニ雑誌ノ廃刊アリテ当時東京ニ於テ刊行スルモノハ数学雑誌、東京数学雑誌、数学独学雑誌、数理問答雑誌、及ビ本会雑誌等ナリ」 師の理軒と同じように松見文平も、数学研究の会に積極的に参加するようになった。こうして松見文平も着々とその実力を養い、持前の行動力によって多くの機会を捕え、確実に自分のものとしていったのである。順天求合社を継承して三年、ようやく松見文平は三代塾長として塾経営の見通しをもてるようになり、多くの卒業生に対して正統なる塾継承者である事を知らしめた。将に新しい順天求合社の時代が始まろうとしていた。 明治十九年七月には、中猿楽町四番地に塾の移転を完了していたが、松見文平は他塾の教授を兼務しており、『転校并規則改正』の届けを提出したのは翌二十年九月となった。設置の目的を次の様にした。 「本校ハ数学測量天文等ノ諸学科ヲ教授シ主トシテ理学ノ普及ヲ助ケ且ツ諸官立学校入学志願ノ生徒及ビ諸官省登庸受験ノ予備二充ツ」 従来、教育課程も初等課(一年)・中等課(二年)・高等課の(二年)合計五年だったものを改め、尋常課(二年)・高等課(二年)の合計四年とした。更に、生徒定員を百五十名から倍の三百名とした。 明治二十年は松見文平にとって大変多忙な年であったことは前にも述べたが、塾形態からの脱皮が本格的に開始された重要な年でもあった。 |
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