41.順天求合社の再出発A
松見文平が教員免許状を取得したのは明治十九年五月のことであり、その二ケ月後の七月に美土代町三丁目から以前の中猿楽町四番地に再度塾を移転している。維新以後多くの優秀な門人を輩出したこの地で、いよいよ本格的な塾の立て直し計画を実施する事になったのである。まさに順天求合社の新しい時代が始まろうとしていた。 一方、明治十九年には諸学校の学科課程が整備され、学校令によって各学校別に制度化された。いよいよ教育制度の確立が計られる事になったのである。まさしく時代に即した塾の移転であった。 しかし文平は、塾の脱皮を計るため、自分の教員免許取得に明治十八年と十九年の二年間を費やした。この二年間の生徒数については、「学事統計」や「文部省年報」にもその数字は無く、又本校同窓会名簿に於いてもはっきりしない為、生徒数の全容を知る事は出来ないが、塾の運営が疎かになっていた事は止むを得なかった。 理軒や治軒の時代では塾生の授業料以外に、治軒の官職としての月給や出版による印税によって、塾そのものを十分に維持出来た。しかしやっと教員免許状を取得した松見文平にとって、この二年間の学問に対する投資と、それによる塾生の減少、更に中猿楽町四番地校舎の改築によって、出費はかさむ一方であった。 文平が教員免許状を取得したとはいえ、塾生が直ぐに集まる訳でもなかったので、財政基盤の安定には、他校の教員を兼務する以外に方法は無かったのである。兼務した学校は次の様になる。 明治十九年十二月から皇典講究所(国学院大学の前身)数学・理化学の教授。 明治二十年一月から興風女学校の数学教授。 明治二十年九月から跡見女子学校(現在の跡見女子学園)数学教授。 明治二十年九月から東洋商業専門学校の教授。 明治二十年の段階で、順天求合社以外で実に四校の教壇に立っている。 |
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