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37.塾長の交代A

 

 治軒の著書は生涯で十数冊あるが、その内、明治十一年以後で年代がはっきりしているものは、「東京近傍独案内之図」明治十二年・「筆算微積入門」明治十三年三月・「筆算入門例題四冊」明治十三年五月、これら三書である。明治十四年以降は一切執筆されていない。この明治十四年という年には一つの大きな事件が発覚していた。これが「陸軍機密地図売却未遂事件」である。

 木村信卿少佐が清国人に数種類の大日本全国小地図を作り、国中の六菅鎮台や営砲台の位置等を記入して売却しようとした。この事件を切っ掛けとして、陸軍参謀本部の地図課を中心に、不可解な変死や他殺の疑いのある自殺、或いは切腹するものが続出し、懲戒処分者も多かった。

 この事件は治軒の身辺にもおよび、治軒と陸軍省関係の仲間によって創設された時習義塾の渋江や木下の名前も載っており、その他、順天求合社卒業生も含まれていたのである。一説には福田理軒もこの事件の巻き添えを食ったとも言われ、それが東京を去る直接の原因となったとも言われるが、その事実を明確に知る事は出来ない。

 因みにこの事件は、山県有朋とその右腕の桂太郎が、陸軍の兵制をフランス式からドイツ式に改革しようとしていた時期で有り、それらの関係から仕組まれ、木村信卿を中心として一連の事件に発展したと言われている。

 この明治十四、五年頃、理軒は伝統的な和算を否定され、一方治軒は陸軍省関係の問題によって疲れ切っていた。更に塾生数を見れば明治十六年の生徒数は二十二名のみで、既に塾経営の情熱は失われていた。理軒は七十歳、治軒はまだ三十五歳であったが将来の希望を失っていた。そこで治軒は明治十七年十一月、塾を高弟の一人である松見文平に譲り、理軒、治軒親子はその年の暮れ、大阪に帰っていったのである。

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