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36.塾長の交代@

 

 福田治軒(半)は明治六年十二月より陸軍省に出仕して後、官職と私塾経営に忙殺される毎日を送っていたのは既に述べた通りであるが、28号で触れたように明治十一年八月三日、病気を理由に突然辞表を陸軍省に提出し退職してしまった。病気の理由はリュウマチであった。本所の医者山本少貞の診断書によれば六月四日以来、沃度加里コロキーム等によって治療を行ったが効果はなく、測量等の実地による激務に耐えられなくなった旨を述べている。

 しかしこの病気はどうも口実であった様だ、それは陸軍省退職後の治軒の活動によって知られる。退職の理由が塾経営に専念する事だけだとしたら明治十一年以降の生徒数が三、四十名と少なすぎる。さらに陸軍省退職の翌十二年には、信州千曲川の測量を行い、門下生をつれて元気に動きまわっているので、重病であった筈はない。又、分かっている長期の実地測量の活動でも、明治十四年五月から九月まで諏訪湖や天竜川の測量を行っている。この当時でも四、五ケ月に及ぶ測量を難無くこなしている。

 当時の治軒の年齢は三十代前半であり、総合的に考えると、何か特殊任務を持っていたとも想像出来る。どうも陸軍省退職については何らかの特別な事情があったとしか考えられない。

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