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38.三代校長松見文平

 

 福田治軒から順天求合社の一切を譲られた松見文平であるが、高弟の一人といえども創立五十年に及ぶ名門校を継承したのは弱冠二十三歳の時であった。

 松見文平は一橋家の御典医であった松見甲斉の第二子として、文久元年七月十五日江戸の駿河台に生まれた。

 本学園所蔵の松見文平履歴書を抜粋して見ると次の様になる。

一、 慶応二年六月より明治三年五月迄、本多和泉守儒家阿部田伝に従い漢学を学ぶ。
                                                                            
一、 明治五年七月より同八年三月迄佐々木顕忠及び星亨に従い、英語を学ぶ。
                                                                           
一、 明治九年三月より同十三年七月二十五日迄、順天求合社に於て同社々主正七位福田半及び其父理軒翁に従い、算術・代数・幾何・三角法・微分積分・力学・実地測量・航海術・弾道測量・天文暦学の諸科目を修め、右優等卒業の証書を受領す。
                        
一、 明治十三年十二月より同十五年十二月迄、順天求合社に於て助教授の嘱託となる。
             
一、 明治十四年九月東京府庁の認可を経て、私塾明玄学舎を創立し数学・測量を教授す。
             
一、 十七年十一月順天求合社設立者福田理軒先生より同社を譲られ、東京府庁の認可を得て右社主兼校長となる。
                

 この履歴書から文平は既に五歳から寺子屋にて学問を始めている。当初は、漢学や英語を学んでいたが、明治九年三月順天求合社に入門して以降、それまでの文系の学問から理系の学問に専念することになった。その後、十四年九月には、私塾明玄学舎を創立し独立している。文平が二十歳の時の事である。

 松見文平は多くの卒業生の中から第三代校長に選出された非常に優秀な人物であったが、福田理軒、治軒の弟子は大阪・東京を中心に、全国各地に数多くいた。このような大先輩を差し置いて、若年の松見文平が順天求合社を継承したのであるから、今後の見通しすら立たなかったのも当然であったと言えよう。

 これ以後、順天求合社を軌道に乗せるまでにはまだ多くの時間を必要とした。

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