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35.和算と洋算の攻防A

 

 東京数学会社では、主に雑誌に寄稿してお互い難問を出して解き合う方式を取っていた。その解答の仕方が独特で、当時和算家・洋算家の双方が会員となっていた為、和算の問題を洋算で解答したり、また反対に洋算の問題を和算で解くといったことを行っていた。前号で述べたように当時はまだ和算・洋算が混在していたのである。

 しかし学校教育での洋算採用の影響は大きく、学制から十年を経た明治十五年、この学会に於いても和算を全廃させるべき方向となった。

 東京数学会社雑誌の第五十二号に中川将行が「数学会社の目的」という題で、和算家の研究態度を批判した。これは通常「和算を葬り去るの辞」と称されるものである。

 『我国百工技術未ダ欧州ニ若カザルモノアレバ、従テ、数学ノ其効ヲ百般ノ実業二顕ス所ノ地域モ小ナリト雖、其効ヲ顕スコト、彼ニ劣ラザルノ日ニ逢ハンコト、蓋シ甚ダ遠カラザルナリ。決シテ内外切触ノ理ヲノミ是レ講ジ、以テ、尚ナリ達算ナリト誇ルノ日ニ非ルナリ。論者又或ハ曰ハン。我輩理論ヲ以テ世ニ立ツモノナリ、実業ニ至リテハ、我輩ノ干セザル所ナリト

 然レドモ、理論ノ実業ニ益ナキハ無用物ノミ。其ノ蹟ヲ絶ツトモ、公衆ニ害ナキナリ。

 凡ソ天下ノ事物、公衆ニナス所ノ実益多キモノハ、之ヲ貴重スベキナリ。少キモノハ貴重スルニ足ラザルナリ。苟モ公衆ノ実益ヲ謀ラズ。空理空論ニ荒淫シテ無上ノ楽トナシ、学者ノ栄誉を得タリトスルモノハ、愚ニアラザレバ狂ナリ。』

 これ以後、東京数学会社雑誌には和算の問題は徐々に掲載されなくなっていった。また明治十五年以後、日本に於ける和算書はほとんど出版されなくなっていった。事実、理軒・治軒の著書も、既に明治十三年を境として出版されなくなっていた。明治十五年頃を前後して、和算は過去の学問として追いやられてしまっていた。

 理軒は日本を代表する和算家でありながら、西洋文化の急速な流入後はその名前すら忘れ去られてしまった。歴史の無情けさを痛感せずにはいられない。

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天保6年頃の順天堂塾の授業風景。このように和算の授業が行われていた。

                                                                                                                                          
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