34.和算と洋算の攻防@ 日本の明治初期に於ける西洋文化の吸収を文明開化と言うが、これが教育界にも大きな変革をもたらし、この時期、順天求合社の主要教科である数学を例に取って見ても、日本の伝統的な「和算」と西洋の「洋算」との熾烈な主導権争いが展開されていた。 明治八年理軒の著書である「筆算通書」の序に、各数学史等の書物にもしばしば引用される、有名な文句が有るので引用する。 『童子問テ曰ク、皇算洋算何レカ優り何レカ劣レルヤ。曰ク、算ハコレ自然二生ズ。物アレバ必ズ象アリ。象アレバ必ズ数アリ。数ハ必ズ理ニ原キテ以テ其術ヲ生ズ。故二其理万邦ミナ同ク、何ゾ優劣アラン。畢竟優劣ヲ云フ者ハ其学ノ生熟ヨリシテ論ヲ成スノミ…』 西洋化の波が恐ろしく速い勢いで日本国中を包み込んでいた。そのため、西洋崇拝の学者からはこの文章をもって、「真の洋算家になりきれなかった。」などと言われるが、理軒の和算・洋算に優劣のない事を示したこの文章は大変注目に値する。 もともと和算は日本固有の数学であり、江戸時代の初期より興り、僅か二百五十年と言う短時間に、西洋数学に匹敵する進歩を遂げた事は世界的に見ても驚異的であり、他にその類例を見ないのである。この両数学を歴史的な背景や内容を無視して、優劣を付ける事は将に愚かである。 明治五年の学制によって、我が国では学校教育に洋算を採用し、和算を全廃する事に決定した。そこで和算家の多くは洋算を学ぶ事になったのであるが、それでも依然として、数学研究の最高機関である東京数学会社では、和算と洋算が混在していた。しかし、理軒は明治十二年の東京数学会社委員選挙で二十五票を獲得し第三位となっている。実力を認められているものの、和算家としてはこれが限界であった。 |
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