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33.福田理軒の著書

 

 理軒は明治十二年に著名な三冊の書物を執筆している。それが「明治小学塵刧記」「算法玉手箱」「近世名家算題集」の三書であった。

 先ず「明治小学塵刧記」であるが、これは算数の初歩から分かり易く説いたもので、明治十九年には文部省の小学校指定教科書となった。

 次に「算法玉手箱」であるが、これは我が国最初の数学史の本としてまとめ上げた書物であり、その後の多くの書物に引用されている名著である。この本朝暦法の小伝には「…天に順ふて合せん事を求め…」とあり、将に本校の建学の精神である『順天求合』に通じる記述も見られる。

 この「算法玉手箱」の下巻に明治十二年当時の塾の様子が載っているので引用しよう。

 普通測算学校新年集

 明治十二年第一月初六日午前十時新年始業

 自問自答

 「大小の球各彈力を有し圓の内外周を運轉するあり、大球の外周を旋り小球は内周を旋るに一月一日の午砲を聞くと、應に両球同点より運轉を起す、然に大球は九時間にして一周し一月六日午前十時に再び兩球同点に復せりと云、小球の一周せる時間幾何。」

 答 十三時六分四十秒

   上   松昧文平

 この頃の順天求合社では、毎年新年始業式には必ず数学の問題を出しあって、それに答えるという新年行事を行っていた。この自問自答の問題を出した松昧文平とは、正しくは松見文平の事であり、やがて順天求合社の第三代塾長になる人物である。

 最後に「近世名家算題集」であるが、名前の通り各数学者の算題を取り上げたものであり、出版に際して理軒は算術問題の出題を依頼している。例えば、萩原禎助に宛てた、理軒自筆の手紙が日本学士院に残されているが、荻原禎助は文政十一年(一八二八)〜明治四十二年(一九〇九)群馬県の農村の人で、「日本最後のそして有力なる和算家であった」と、小倉金之助「日本の数学」にも紹介されている人物である。

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