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29.塾内同居学校

 

 順天求合社は、明治十一年頃からの生徒数の減少に伴い、明治十五年には専修学校(現専修大学)に校舎を貸すことになったのである。

 専修大学百年史から抜粋しよう。

 「神田区中猿楽町順天求合社内へ移転われわれの専修学校は、発足以来、時勢の要求にマッチし、生徒数は年毎に増加したので、木挽町の校舎はようやく狭隘をつげ、到底生徒を収容しきれなくなった。そのため、われわれの創立者は、方々適当な校舎を物色し、ついに神田中猿楽町の順天求合社を借りうけ、明治十五年十一月、この地に移転した。相馬永胤日記明治十五年十一月十八日の条に「専修学校ノ雑作等ヲ吟味シ云々」とあるから、順天求合社の校舎を多少補修し、この後まもなく、ここへ移転したものと思われる。」

 当時の専修学校は夜間部のみの学校であり、始業時間も午後三時三十分頃からであり、午前中と午後の三時頃までは、順天求合社の生徒が相変わらず授業を受けていた。言ってみれば、順天求合社の敷地に専修学校が同居している状態であった。この同居は、明治十五年十一月から同十八年七月まで続いた。専修学校は、夜間部であったことも影響し、苦学生には有利な経済学・法律学の学校として、数多くの生徒を抱えた有名校であり、数学・測量を学ぶ学生とは趣を異にした専修学校の生徒も数多く登校した。

 明治十五年四月、東京府は甲第五十五号をもって、町村立私立学校等設置廃止規則を公布した。この中に設置廃止以外で継続設置してある塾については次のようにある。

 「従来設置之分ハ、本文規則二定ムル事項ヲ具シ、更二開申スヘシ」

 これに基づき、順天求合社も明治十六年に私学開申書を提出した。これは当時の教育機関と教育制度の充実によるものであった。

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