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28.塾生の減少

 

 福田治軒は、明治六年十二月就任以来四年間勤めた陸軍省を、明治十一年八月になり、突然退職してしまった。その理由については後に詳しく述べることにするが、何とも不可解な出来事であった。

 しかし、治軒は陸軍大尉という職は放棄したものの、相変わらず多忙な日々を送っていた。明治十二年には門下生を連れて信州千曲川を測量し、明治十四年には信州諏訪湖や天竜川の上流を測量した。何故治軒が陸軍省を退職していながら、軍関係の測量に従事していたかは不明である。

 明治十一年、陸軍省に参謀本部が設けられ地図課・測量課を置き、全国の概観図を作製することが決定した。治軒はその軍の依頼を受け、各地の測量に出掛けていったのである。

 陸軍参謀本部の地図課と測量課には数多くの順天求合社卒業生を送り込み、時にはそれら卒業生と、或は優秀な順天求合社の弟子と共に各地を測量して歩いたのであった。日本全国の測量実施の背景には、西南戦争時の苦い経験があり、その反省によるものであった。つまり、九州の詳しい測量図面が無い為に、西南戦争時に政府軍は大変苦戦を強いられたからである。

 しかし、各地を測量して巡っているうちに、次第に肝心の塾経営の方は疎かになってしまった。それは明治九年から明治十七年までの塾生の推移を表によって見てみるとよく理解できる。明治九年には二百名以上の生徒を抱えていたが、明治十一年には四十二名と生徒数が激減している。明治九年と十年の在籍数は、前号で述べた様に校内に「貧生教救課」を設置した事により生徒数の増加につながったのであろう。

 

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