27.生徒募集広告
当時治軒は多忙な官職にあったので、25号でも述べたように専ら塾の経営面は父である理軒と幹部に任せていた。その為、治軒不在といえども塾の教育面では、盤石の体制を敷けたのであった。 当時の塾の様子を知るものとして、「筆算入門」という著書の裏面に順天求合社の広告が載っている。資料が読みにくいので抜粋する。 「校内 貧生教求課 和算洋算其好ミニ應シ午後三時ヨリ一時間 教求課ノ旨趣ハ男女ヲ論セズ困窮ノ子弟八歳ヨリ十五歳ニ至ル者及ヒ長年タリトモ雇人等ニテ有志ニシテ学費ニ乏シキ者日々百名ヅツ通学ヲ限リ束修及ヒ月謝学費一切之ヲ免シ教課ノ書籍ハ之ヲ施興シ加減乗除ヨリ諸比例開平開立代数方程式ニ至リ日用欠ク可ラザル専務ノ技ヲ教諭ス ○教求課ノ生徒タリトモ勉励ノ上尚ホ進歩ノ識コレ有ル輩ラ其機ニ因テハ試験ノ上正課ヘ転入ヲ許シ其束修月謝等ノ學費一切之ヲ免ス」 この様に、入学金・授業料に関係なく、貧しい者でも学問を志す者には、誰にでも塾の門戸を開放したことは注目に値する。一方、当時の塾の経営面はかなり安定していたことが知られる。これは治軒が陸軍大尉として官職に就き、塾経営に対する資金源は十分であったからである。その例として、先の朝鮮出張の後、太政官日誌には次の様にある。 「明治九年九月二十一日陸軍大尉正七位福田半黒田特命全權辨理大臣ニ随行朝鮮国ヘ出張盡力候ニ付目録縮緬代金八十円ヲ賜ハル」 その他、治軒・理軒の著書出版についての印税などもかなり有ったと思われる。中でも「筆算通書入門」は当時九万部売れベストセラ−となり、それだけを考えて見ても、塾の知名度と教育水準の高さを知ることが出来るのと同時に、経営面での安定はそれを裏付けるものであった。 この広告の最初に、「普通測算学校」と言う校名が見えるが、これは順天求合社普通測算学校の意味であり、順天求合社学園の経営する普通測算学校ということである。開塾より四十二年、順天求合社はその時々によって呼び名も変化させていったのである。 |
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