26.出張命令
福田治軒の塾教育に対する情熱もさる事ながら、やがて陸軍省に於ける実力と実績が認められ、明治七年十一月には正七位に叙せられた。 この頃の順天求合社一門の測量技術は、世間の認めるところであり、歴史と伝統に裏付けられたお家芸であった。その為、治軒は陸軍省からの出張命令を度々受け、日本各地の測量を行なっていたのである。 明治八年十二月には隣国の朝鮮に出張命令が出された。 朝鮮への出張命令の背景には、外交政策としての対朝鮮問題が有った。日本が幕末に欧米列強国によって受けた開国要求と同様に、明治六年八月西郷隆盛を使節として朝鮮国に対して開国を求めたが受け入れられず、この為、武力を持って開国させようとする征韓論者を出すに至った。その後朝鮮問題は紛糾を続けたが、明治八年、朝鮮半島沿岸で測量を行なっていた日本の軍艦が、江華島沖で朝鮮の砲台から砲撃を受けた事件、即ち、「江華島事件」をきっかけとして、翌明治九年には日朝修好条規を結ぶ事となった。これは約二十年前に、欧米列強国が日本に対して押付けた不平等条約である「安政の五カ国条約」と同様に、日本は朝鮮に対して、この不平等条約を結ばせ、釜山・仁川・元山の開港、領事裁判権、関税免除等の特権を認めさせたのである。この年、黒田清隆を代表として六隻の艦隊が、「日朝修好条規」締結の為に朝鮮に派遣される事が決定した。福田治軒もこの隊の一員となり、出張命令が出されたのである。 この出張は、明治九年一月より三月までの三ヶ月に渡る大旅行であった。 福田治軒の朝鮮出張旅行からの帰国について、乃木希典日記に「明治九年三月一日、朝鮮より歸国の福田大尉と會ふ」とあり、治軒と乃木との関係はどの程度であったかはよく分かっていないが、乃木希典が小倉在勤の頃、朝鮮に於ける治軒一行の重要任務が達成されたことにより、その労をねぎらう為に、下関まで出向いて来たのであろう。この翌年には西南戦争が勃発し、治軒も乃木も再度九州で再開する事になるのである。 |
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