25.家塾順天求合社開業願B
理軒・治軒の測量学における実績によって、順天求合社は数多くの門下生を抱え、かつその門を叩き入門を請うものが後を断たなかったため、下谷上車坂に教場を確保し、明治七年三月に「順天求合社分塾開業願」を提出する運びとなった。内容的に本塾と大差は無いものの、分塾の起業時間帯は午後六時より九時までの、夜間部のみとしていた。本塾で夜間の生徒が多くなった為の苦肉の策であった。 実際の生徒数は学籍簿が残っていないので不明であるが、この二年後の明治九年の文部省統計によると男子二百十三名、女子十三名と云う数字から、その人数の多さを察する事ができる。当時はまだ寺子屋風の教育方式がとられ、塾は私宅を転用している様な有様であったから、この二百名を越える生徒数は、収容の面から将に驚異的数字であったと言える。 さらに治軒は順天求合社と順天求合社分塾以外に、もう一つ別の塾の教授をも兼務していた。それは明治七年六月に私学開業願いによって届出がなされた時習義塾である。この時習義塾は、陸海測量による地図製作の技術の立ち遅れを嘆いた、治軒の勤める陸軍参謀局地図課の同僚達によって開塾されたものであった。教師陣は皆陸地測量に実績をもった専門家達であり、皆官職についていた人達で設立された点では、他の塾と設立の様相を異にしていた。 この当時、治軒は順天球合社とその分塾、また時習義塾の教官をも兼ね、更に陸軍省での官職をも兼務していた事は、将に驚異的であったと言えるが、順天求合社の長老達の手助けをも受けていた。明治六年秋に出版された「筆算通書入門」の裏面には、順天求合社の広告が掲載されている。これによると、社長名に和田正敦と記載されており、彼は福田理軒の高弟子の一人であった。つまり順天求合社塾長である治軒の下に「社長」を置き、教育活動の全般を担当させてたのである。もちろん塾長職を退いた理軒も特別講義を担当していた事は言うまでもない。治軒も多忙な官職の合間を縫って担当授業には顔を出したのである。 |
前ページ | 次ページ |