24.家塾順天求合社開業願A
学制発布の翌明治六年一月に、「東京府開学明細書」の調べによると、私塾・家塾の届出総数は八百九十八校にもなった事が明らかにされているが、この時点では順天求合社の届出は未だなされず、同六年四月に、ようやく家塾順天求合社開業願を提出したのであった。 明治四年九月に大阪から東京に塾を移転してからも、塾の経営は理軒が行っていたのであるが、この明治六年四月の届出は、福田半(治軒)によってなされている。理軒の年齢はこの年五十七歳であり、新しい教育制度もほぼ確立されつつある時代に、理軒から息子治軒へと塾が受け継がれる事になり、治軒は順天求合社第二代目の塾長となったのである。当時福田半(治軒)は、弱冠二十四歳であったが、父福田理軒が十九歳にして順天堂塾を創立したことを考えれば、当時の教育にはまさに若い柔軟な発想と、行動力が要求された時代であったことが伺える。 治軒は開塾願いが出された同年十二月になり、今度は陸軍省に出仕し、測量課次長となった。それは京浜間に於ける鉄道建設の測量を初めとする、各地の測量実績によって陸軍省に召し抱えられたのである。そもそも測量学は父理軒が黒船を測量し、出版した「測量集成」の頃から、順天堂塾の御家芸として世間に認められた学問である。更に治軒は14号で述べたように御雇い英国人イングランドからも奥技を学び、自ら著した「測量新式」によって、その実力が認められ、明治七年七月には陸軍大尉にまで昇格したのであった。 「陸地測量部沿革誌」に次のようにある。 「明治六年秋冬の頃陸軍省に本邦全国に亘り軍事要地の実測に着手の企図あり依て測地事業に経験あるものを徴集の処明治六年十二月初めて之に対し一名出仕官に補せられる。陸軍省第六局附を命ぜらる此の東京市内に洋算の私塾を開き居たる福田半なる者初めて陸軍省九等出仕に補せらる」 治軒の華々しい官職としての活躍は他の認める所であるが、それと同時に、多忙を極めるその中で塾経営をもこなさなければならなかったのは、維新による新しい国づくりの時代的要求であったと言える。 |
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