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23.家塾順天求合社開業願@

 

 順天求合社も学制発布に従って明治六年に開塾願を提出した。

 当時の教育制度上の学校は学制発布によって、大学、中学、小学の三つに区分された。

 先ず、小学校には様々な種類があるが、大きく分けて上等と下等の二種に分けられ、下等小学校は六歳より九歳、上等小学校は十歳より十三歳とした。中学校も同じく上等下等に分けて、下等を十四歳より十六歳、上等を十七歳より十九歳までとした。大学では特に年齢の定めがなされていないが、これが現在まで続いている教育制度の原形である。

 学制の小学校に関する第二十八章に次の様に有る。

「右ノ教科順序ヲ蹈マスシテ小学校ノ科ヲ授ルモノ之ヲ変則小学校ト云フ 但、私宅ニ於之ヲ教ルモノハ之ヲ家塾トス」

 更に中学校に関する第三十章には次の様に有る。

 「当今中学ノ書器未タ備ラス此際在来ノ書ニヨリテ之ヲ教ルモノ或ハ学業ノ順序ヲ蹈マスシテ洋語ヲ教ヘ又ハ医術ヲ教ルモノ通シテ変則中学ト称スヘシ 但、私宅ニ於テ教ルモノハ之ヲ家塾トス」

 この両章の「教科順序、学業ノ順序」とは、学制によって定められた教育課程である。この教育課程に沿って教育出来ない場合が変則の小・中学校であり、更に形態はこれと同じであるが、私宅にて教授する塾を全て家塾と規定している。

 では、家塾とは一体どの様なものか。第三十二章に次の様にある。

「私宅ニアリテ中学ノ教科ヲ教ルモノ教師タルヘキ証書ヲ得ルモノハ中学私塾ト称スヘシ、其免状ナキモノハ之ヲ家塾トス」

 この様に変則の小・中学であり且つ、免状のない教師によって教育されていた塾が家塾であった。当時は教育制度が出来たばかりであり、家塾が圧倒的多数を占めていたのであろう。国家としてもこの私塾・家塾の力を借りなければ、教育機関の不足は補えなかったのである。

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