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22.学制発布A

 

 政府により学制発布がなされ、国民皆学を強力に推進する為に教育機関の設置が急がれたが、実際に地方で小学校の設置に着手したのは、明治六年四月以降であったと言われている。学制実施三年後の明治八年までには、二万四千二百二十五の小学校が設置された。これは驚異的な数字であり、小学校部分については早くも計画の約半数近くの学校が設立されたのであった。

 学校設置を強力に推進出来たのは、何と言っても幕末に全国各地に数多く設立された、いわゆる初等教育部門を担当した寺子屋の普及があったからに他ならない。つまり学制後の小学校の多くは、寺子屋等の庶民の教育機関を母体として設置されたのであった。この事は明治八年の小学校設置の実態をみると理解出来る。校舎の四十%が寺院、約三十三%が民家、新築は僅か十八%であったのである。

 文部省設置と同時に福田理軒もその文部省に出仕した為、学制発布による教育行政に関する遠大な構想を、誰よりも早く知ることが出来た。そのため、順天堂塾の東京への移転を早急に考える必要に迫られた。その一つの理由として、「全国ノ学政ハ之ヲ文部省ニ統フ」とはっきりと述べられている通り、これからは地方よりも中央の時代になって行く事が明らかであったからで、更にもう一つの別な理由は、順天堂塾が和算の塾として創立され、その後、洋算、測量も教授するものの、新知識に不足しており、もはや伝統に固執していれば、塾そのものの存続に関わる問題となることは、火を見るよりも明らかであったからである。

 学制の基礎資料は、教育行政に関しては特にフランス、教育制度はアメリカにその範を求め、オランダ、イギリス、ドイツの教育制度も参考にして作り上げられた。維新後の日本においては近代化即ち西洋化であり、教育の面でも西洋の文明の流入を否定出来る筈もなかった。そのため、和算の伝統と大阪の地による拘束は、やがては塾の廃業を意味することに繋がり、早急にその手段を講じなければならなたったのである。

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