21.学制発布@
明治維新をへて新政府の実行すべき政策は山積していた。教育行政もその中の重要な問題の一つであった。そこで明治四年七月十八日、太政官布告「大学ヲ廃シ文部省ヲ被置候事」と文部省が設置され、教育行政面での全国統一を徹底しようとしたのである。 明治四年七月十四日には既に廃藩置県が実施され、中央集権的な国家として、国内の政治的統一が完成した。これによって文部省は同年九月に「府県学校取調」の伺書を提出し、全国の学事状況を掌握すべく準備を行い、十一月には全国府県諸学校を全て文部省の管轄下においた。さらに教育制度の確立を目指し、欧米諸国の教育制度に関する分析を行い、学制発布の準備を進めた。明治五年八月三日、ついに太政官より学制発布がなされたのである。 「学制」は、近代学校制度の基礎を定めた日本初の規定であり、その目的は欧米列強の侵略に対する危機感によって、早急に国家独立による近代日本建設の為の人材づくりを主眼とし発布されたのであった。 「国家百年の計は教育に有り」と世に言われる様に、学制の前文として「学事奨励に関する被仰出書」の中に教育改革の大方針を述べている。 学制発布は学校設置と国民皆学とを目的としたのであり、本条は「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の以上六篇百九章から成り立ち、翌明治六年三月四日には学制二編他が追加され、全文二百十三章に及ぶ厖大な規定となった。 この中の「大中小学区ノ事」では学校設立計画が示され、学区を地方教育行政の単位として、全国を八つに分け、各大学区には三十二の中学区を各中学区に二百十の小学区を設け、各学区ごとに一校ずつの学校を設置し全国合計で大学八校、中学二百五十六校、小学校五万三千七百六十校の設置予定がなされていた。これは人口のほぼ六百人に一校という遠大な計画であって、財政面を抜にした机上の計画であった。 |
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