20.塾移転の経緯E
首都が東京に定められ、もともと良港ではなかった大阪は『天下の貨七分は浪華にあり』と言われた勢いが失われ、衰退の一途を辿る事となった。然しながら、順天堂塾は浪華がその勢いを誇った天保年間と相変わらぬ発展ぶりで、「浪華の順天堂塾」と言えば全国的にも有名な塾であり、全国から集まった多くの門弟を抱えており、塾の移転問題については相当な決心が必要であった。 それは、単に塾を移転させるだけでは浪華と言う地域と門弟達に対しての大義名分が立たず、さりとて浪華の地で相変わらず江戸時代の教育を行うままでは、教育にたいする時代的要求が満たされないことになる。 そこで理軒はこの二律背反する問題解決の為につぎの様な方法をとったのである。 理軒は文部省に出仕していた関係で日本に新しい教育制度が発足しようとしている事を知った。その時代的要求を満たす為に、東京に新しい学校を設置させる様な新鮮味を持たせ、尚且、伝統と実績がある事を強調すべく、『順天堂塾』を使用せず『順天求合社』の名称を使用して移転し、順天堂塾そのものは大阪南本町四丁目に残してその経営を弟子に任せると言う方策を取り、伝統的な塾から近代的な学校への脱皮を図った。 塾の移転は明治四年九月の事であり、同年十二月に出版された「筆算通書」の裏面には福田派に連盟する各塾の名前が載っている。福田派と連盟した塾が、どの程度存在していたかは不明であるが、安政六年(一八五九)頃に確認できるものとして、東都任天堂・浪華通天堂の二塾があり、明治四年に至っては順天求合社を中心として、庚午塾・試天堂・順天堂の合計四つの塾が確認出来る。 塾の移転は順天堂塾の創立三十七年目の出来事であった。 |
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