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19.塾移転の経緯D

 

 日本は明治維新を迎え中央集権的な国家体制の確立を目指して歩み出していた。前号までに述べてきた様な学派における主導権争いとも言うべき状況も、これに起因している。

 その中で、順天堂塾を取り巻く社会環境の変化にも極めて激しいものがあり、理軒は忙しく公職を担当しているうちに、このままでは塾の経営が疎かになってしまうことを危惧していた。しかし、息子治軒も理軒と共に東京に出てきており鉄道敷設工事の測量に従事したり、大学医学校も兼務すると言った状況でとても大阪にある順天堂塾の経営を任せる訳には行かなかった。理軒が東京に出て既に一年以上が経過しており、大阪の順天堂塾がどうしても心配であった。そこで理軒は文部省を辞職し、塾を大阪南本町四丁目より、東京神田中猿楽町四番地に移転することを決意したのである。

 塾の移転は明治四年九月の事であり、塾名を順天堂塾から順天求合社と改称する事になった。この順天求合社とは、順天堂塾の中の高等学問研究機関として設立されたものであり、この名称を使用した理由は次号で述べる事とする。

 塾移転には二つの原因がある。一つは、新政府の近代化政策によって、教育面においても新しい西洋式の教育制度をもとに明治四年には文部省が設置され、こうした時代の進展の中で私立の塾として教育を行う上では、やはり東京という立地条件を無視できなかったからである。

 もう一つは、明治三年七月の京都における大学創設計画の中止と、土御門家の消滅によって、同年十二月に暦の研究事業継続が不可能となり、同時に学問的権威も消滅し、大阪における束縛も無くなったからである。

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