18.塾移転の経緯C
土御門家は天文暦道の職からは消えたが、明治元年当初に召集された五十一名の門弟がすべて消えたわけではない。東京において大学星学局と改称し、新たな研究機関として再出発した天文暦算は、和算家内田五観を取締督務として、その下に八名の取締役が任命された。その構成員は旧幕府天文方系より三名、土御門系より五名の人物が選抜組織されている。当然に理軒もここに名を連ね、「大得業生准席」とし、内田五観の下で活躍することになった。土御門系の人物が過半数を占めており、特に内田五観や福田理軒は取締の九人中では重要な職務に就いていたので、一門の面目は辛うじて保ったと言えよう。 この星学局での使命は改暦作業にあった。彼ら九名の天文暦学の技術者達によって、明治の本格的な改暦作業が開始された。星学局は明治四年七月に大学本校が廃止され、文部省が設置されるとその省内に移され天文局と改称された。 やがて天文局の改暦作業は遂に実を結び、明治五年十二月、西洋諸国の例にならって暦法を改め、旧暦(陰暦)を廃して太陽暦を採用し旧暦の明治五年十二月三日を太陽暦の明治六年一月一日と改暦したのである。天文局は最大の使命であった太陽暦による改暦作業が終了し、その役割を終え明治七年二月には廃止された。実際に理軒は明治四年九月で天文局における仕事を辞職しているが、これは改暦作業が太陽暦によって行われる方針に決定してからのことであった。 そもそもこの改暦が強行に実施された背景には、政府の官吏における俸給を月給制に切り替えた為、そのまま太陰暦を使用すれば明治六年がこの暦によると閏年となり、政府としては十三カ月分の給料を支払わなければならなかったからで、当時、政府の苦しい財政負担を軽減する為の苦肉の策であったと言えよう。 理軒は明治六年、天文局にいた経験を踏まえて「太陽暦俗解」を著した。これは、福沢諭吉の「改暦弁」とともに太陽暦の啓蒙的役割を果たしている。 |
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