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17.塾移転の経緯B

 

 明治新政府の大学創設計画は、新しい時代に即応する指導的人材の養成と、欧米の学術・文化を摂取するための中心機関を目的として進められた。この大学は一面では最高学府であるが、もう一面では教育行政機関として企画されていた点に特徴があった。即ち、当時の大学とは最高学府と文教行政の中心機関の両面を持ち合わせていたものである。

 政府の大学創設計画は京都で始められ、東京に遷都されるや、その構想は東京で展開されていった。その為京都と東京で大学校設立の方針が定められたが、しかし京都において設置されていた大学総代が明治三年七月に廃止され、京都での大学創設計画は遂に実現しなっかた。

 東京における大学計画は、旧幕府直轄であった昌平坂学問所、開成所、医学所を維新により復興し、昌平学校、開成学校、医学校としていたが、明治二年六月にはこれらを総合して「大学校」を創設することにした。これが後の文部省へ発展して行くものであった。そして昌平学校を大学校(本校)とし、開成学校と医学校を大学校分局とした。明治三年五月に福田治軒もこの大学分局である医学校で教官となっている。

 明治三年二月に天文暦道がこの大学管轄となるや、土御門晴栄は天文暦道御用掛となった。しかし、同八月七日に、政府は京都にあった本局を東京に移転させ星学局と改称してしまった。その結果、同年十月には京都星学局出張所を廃止して、編暦・頒暦は東京における新政府によって行われる事になった。更に十二月に至っては土御門晴栄は大学御用掛を罷免となり、暦研究分野から土御門家の名は完全に消え、伝統を誇る学問と将来に対する野望は、将に維新の荒波にもまれながら消滅する運命を辿ったのである。

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