トップページへもどる

16.塾移転の経緯A

 

 当時の様子は明治四年に福田理軒の書いた履歴書が残っており、それを分析するとよく理解できるが、これは星学局の中心スタッフ取締)達が書いた履歴書中にあるものであり、理軒もそこに名を連ねている。

 この履歴書から福田理軒の就いた職を列記すると次のようになる。

 明治元年(慶応四年)
  二月、暦等御用掛
 明治二年一月九日
  行政官治河測量御用
 明治二年二月
  会計官出仕
 明治三年五月十七日
  大学天文暦道御用掛
 明治三年六月二十二日
  東京に出る
 明治三年八月二十五日
  天文暦道御用掛を星学御用掛と改称し取締役となる。
 明治三年十月
  大得業生准席

 順天堂塾の御家芸である測量や天文暦学によって、理軒の官職における活躍が知られる。一方この頃、福田治軒においても、13号で述べたように父理軒同様に忙しく官職を歴任し、最終的に鉄道局に出仕し、新橋、横浜間の鉄道付設工事に関係していた。理軒や治軒がこれら官職に就いた事が、後に順天堂塾を東京に移転させる直接のきっかけとなっていったのである。

 明治元年に復権を占した土御門晴雄は全国の斉政館関係者を召集し、理軒を含め五十一人もの人物を集め、編暦・頒暦等の作業を開始した。しかし、晴雄の夢は達成されず遂に明治二年十月六日、病となり四十七歳で没してしまう。土御門晴雄の死後,息子の晴栄は未だ十一歳であったので、分家の倉橋従三位が名代として土御門一門をまとめた。新政府としては国内の基盤確立までの間に暫定的な措置として、土御門一門に編暦・頒暦の権利を与えていたのであり、やがて天文暦道は大学(後の文部省)の中に一局を設け吸収する計画を立てていた。明治二年三月には新政府そのものが東京へ遷都してしまうと、土御門一門は京都に残されることになった。そこで土御門家としては東京に代表を派遣し、大学内で暦算を続けられるように運動したが、思うように行かなかった。

160-16.jpg (49512 バイト)

維新まで幕府天文方において連続観測が行われていた(東京天文台蔵)

                                                                                                                                          
前ページ 次ページ