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15.塾移転の経緯@

 

 幕末に至った日本において、開国に伴う経済の混乱と、政局をめぐる抗争は社会不安を増大させていった。しかし順天堂塾では相変らず熱心に門下生達が学問研究に励んでいた。それも理軒の著した「西算速知」「測量集成」によって他塾を圧倒する教育内容と学問研究に対する姿勢があったからである。開国に伴う欧州からの新しい学問の流入によって、和算だけでなく測量や天文学や暦学等の分野も盛んに研究され、塾そのものが活気に満ちていた。

 やがて二六〇年続いた幕府が滅び、代って新政府が樹立されると、福田理軒・治軒の仕事がにわかに忙しくなってきた。それは順天堂塾と土御門家との関係によるものであった。京都の土御門家は古くから天文暦数をお家芸として、朝廷に仕えていたが、江戸幕府が成立し、貞享元年(一六八四)渋川春海が貞享暦を作って以来、幕府内に天文方が設置され、やがて寛保四年(一七四四)には天文台まで設置されるにつれ、編暦・改暦という重要な仕事を土御門家は幕府天文方に奪われる結果となった。

 しかし土御門家の実力はその後も衰えず、理軒や兄の金塘、又師の武田や小出も皆、土御門家の塾である斉政館に入門し、その権威にあずかっている。やがて幕府が滅ぶと同時に幕府天文方も消滅した。その為、ようやく土御門家は新政府の認可を獲得し、天文暦道の職を得、復権を占すことに成功したのである。理軒も土御門家とともに、その職にあずかり、新政府に召し抱えられて行くことになるのである

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