14.治軒の二人の師
治軒が学んだ佐藤政養と英国人ジョン・イングランドの両師について述べてみたい。 佐藤政養は、勝海舟の門に入って坂本龍馬らと蘭学や火技を学び、後に幕府に徴され、軍艦操練所蘭書翻訳係となった。元治元年(一八六四)将軍家茂が海岸巡覧の際乗艦を命じられた際、大阪で謁見を許され、この時フランス皇帝ナポレオン三世から贈られた望遠鏡を賜った。明治二年以後朝官を拝し、大阪府兵局出仕、沿海局測量兼務、民部省、工部省出仕、鉄道掛を経て、鉄道助となり、正六位に叙せられ、明治十年八月二日五十七歳で没した。 もう一人の師であるジョン・イングランドであるが、明治三年四月十六日から五ケ年契約で建築副役として雇用された。お雇い外国人である。ロシアやイギリス植民地での鉄道建設に従事し、豊富な経験を持っていた。明治三年四月、新橋・横浜間の測量、七月大阪・神戸間の測量、明治七年から神戸建築課の業務を主管していた。翌八年八月、再度新橋・横浜間に戻り、木橋改修や複線工事を監督し、明治十年二月建築師長となった。同九月十四日に病没する。五十三歳であった。 当時の日本においては、お雇い外国人が殖産興業の技術面を担当した。治軒も従事した京浜間の鉄道敷設だけで、何と八十名以上のお雇い外国人がその建設事業にあたっている。後に明治七年の工部省では年間に二百名以上の外国人技術師達が雇われていた。やがて明治十年代に入り、日本人の技術者養成が軌道に乗ってくると、お雇い外国人の数は次第に減少し、同十八年に至っては僅か二十八名に過ぎなくなった。 このように幕末から維新にかけては、外国から多くの技術者が来日し、特に文明開化はこれらの人々によって促進されており、治軒もこの期をとらえてお雇い外国人を師として学んだ。二人の師との出会いは、治軒にとって運命を左右するものとなり、後の順天求合社の教育と経営に重要な影響をもたらした。 |
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