13.息子福田治軒
理軒にとっても和算福田派にとっても、兄金塘の死は大きな出来事であった。そこで理軒は福田派の継承者育成が急務と考え、息子の治軒を学問の道に入らせたのである。治軒九才のときであった。 福田治軒の略歴を述べると次の様になる。 治軒は嘉永二年(一八四九)五月、福田理軒の長男として生まれた。安政五年(一八五八)から慶応二年(一八六六)までの八年間を父理軒に就いて学び、慶応二年十一月から明治元年(一八六八)正月の約一年間は佐藤政養について蘭学を学んだ。その後明治三年七月より明治五年二月までの約一年半を鉄道寮御雇いの外国人、ジョン・イングランド氏について数理測量の諸法を学んだ。 この間、文久三年(一八六三)当時十四歳にして攝西 海軍局(神戸 海軍 操練所)の教官となり、明治二年(一八六九)二月、父理軒と同じく治河局測量御用掛に任じられ、翌三年五月には民部省に出仕し大学医学校教官を兼ねた。後に詳しく述べるが、明治四年(一八七一)九月に父理軒が順天堂塾を東京に移転させ、順天求合社と改称すると、塾の教授も兼務すると同時に、鉄道局出仕に任じられ、日本最初の新橋・横浜間の鉄道敷設に関する測量に従事した。治軒は父理軒について学問の基礎を学び、激動の維新を経て、測量などの技術を認められ、父とともに新政府に召し抱えられたのであった。 そもそも治軒と師の佐藤政養との出会いは、文久三年に治軒が神戸海軍操練場の教官となったことに始まったのである。その後、治軒は佐藤政養を師として蘭学修業を開始した。二人目の師である英国人ジョン・イングランドと治軒の出会いは、明治三年に鉄道局出仕に任じられ、日本最初の新橋・横浜間の鉄道敷設に関する測量に従事したことに始まる。この二人の師については次号で述べるが、治軒の師を通して、日本が激動の幕末から維新に向けて変化する様子が知られる。つまり、学問においても蘭学から洋学へと変化して行ったのである。 |
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