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04.和算塾、蘭学塾

 

 当時の学問の主流は儒学であって、和算家の社会的地位は低かったと言われている。

 和算家の中には、幕府や諸藩の勘定方や天文方、数学師範或いは測量や水利工事の技術者として生活していた者もいたが、その大多数が数学を教えて生活していた。しかし順天堂塾では、理軒の兄金塘の今橋算学校とともに、門下生には浪華の豪商達の師弟を多く集めていたため、塾経営の基盤は充分であったと言える。

 当時の和算塾での教授方法は、大体において個人教授であり、理論を詳説するのではなく問題を各自に出題して、解答できれば次ぎの問題を与えるといった具合であった。そのため、解答できなければ、いつまでもその問題を考えなければならず、能力の劣る者にとってはなかなか先に進まない結果となった。このような和算塾であるが、そのほとんどは官立学校の力を借りずに、堂々と私塾として全国に普及していったのである。

 順天堂塾の規模は絵によって知られるのみであるが、順天堂塾の近隣校であった緒方洪庵の適塾を例にとって見ると、当時の私塾一般の様子が想像できる。

 適塾は天保九年に浪華瓦町に創立され、弘化二年(一八四五)に北浜三丁目に移転したが、その場所が昭和十六年に史跡に指定され現存している。その規模は間口六間、奥行二十二間の木造二階建てであり、建坪は百二十坪程度。一階の奥が緒方洪庵家族の私邸であり、一階の一部と二階を門下生達が使用していた。書生一人に畳一枚が相場であったとされる。

 このたいして大きくない塾から、慶応義塾を創立した福沢諭吉や、日本の兵制を確立した大村益次郎等、幕末から維新にかけて数多くの優秀な人材を輩出した。

 蘭学塾であった適塾が地方出身者を塾生として抱えていたのに対して、順天堂塾は和算塾として、多くは地元の町人達やその師弟を門下生としていたので、両塾を規模や内容において比較する事は難しいが、当時の一般的な塾の規模として参考となるであろう。

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順天堂塾の授業風景(縁側で退屈している様子が面白い)

                                                                                                                                          
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