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03.順天堂塾開く

 

 本学園創立者福田理軒について語る時、まず兄金塘について述べておかなければならない。

 兄金塘は理軒の九つ年上であり、理軒の学問開始から開塾までの一切のモデルとなったのも、この兄であった。二人とも最初に入門したのが、大阪で最も大きな塾の一つであり、当時一流の和算家であった武田真元の塾である真空館だった。

 江戸時代の和算は各流派に分かれており、関流(関孝和)、最上流(会田安明)、中西流(中西正好)、宅間流(宅間源左衛門)、中根流(中根元珪)これらの学派のいずれかに属していた。師匠の武田真元は最上流の坂正永の門下で学び、後に独立して武田流の一派を立て、門弟は実に一千名であったと言われる。

 兄の金塘は真空館で学ぶと同時に、京都の土御門家の塾である斉政館に入門して天文暦学を学んだ。当時の土御門家は幕府天文方と共に、暦の作製には大きな力を持っており、この権威は高く評価されていた。金塘は天保十四年に実力を認められ、そこの師範代となっている。

 兄金塘の独立は文政十二年(一八二九)頃といわれており、浪華の豪商達が多く居住する今橋一丁目において、多くはそれら豪商の子弟を教育していた。このような兄の活躍と兄自身の独立によって理軒の学問の基礎が固められ、順天堂開塾までの路線が引かれ、和算福田派が誕生するところとなった。

 大阪南本町四丁目に開塾した順天堂塾の設立地は、麻田剛立の旧邸であったと言われ、理軒の天文学は麻田流天文学の流れを汲んでいる。学問の系譜と開塾地が一流の学者だった麻田剛立に関係していたことは、実に興味深いところであるが、この因果関係については今尚不明である。

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