01.浪華の順天堂と佐倉順天堂
本学園は、天保五年(一八三四)八月二十六日、大阪の南本町で和算の大家福田理軒によって創立され、平成六年に百六十周年を迎えた。創立時の塾名を順天堂塾、または順天求合社と称していた。 この順天堂という名称は、現在の順天堂大学も同一のものを使用している。同大学が「順天堂」と名乗ったのは天保十四年のことであり、当時「佐倉順天堂」と呼ばれ、これより古い本学園を「浪華の順天堂」と呼んでおり、日本の東と西に二つの「順天堂」が存在した。その後二つの順天堂は、明治維新を経て東京に移転し、奇しくも外堀をはさんで北と南に位置することになった。 もっとも本学園は東京に移転してからは「順天求合社」の名称を主に使用したので「順天堂」としての名称の混同は無かったようだ。 江戸時代創立の本学園は大阪という特殊な環境下に開塾された。当時の大阪は「天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨七分は舟中にあり」といわれるほど、経済都市として興隆していた。また、幕府の直轄地として支配されたにもかかわらず、町人達の一定の自治が行われ、幕府の厳しい統制下にあった江戸や諸国の城下町に比較して、大変自由な雰囲気をもっていた。 その大阪商人の経済力を背景に、町人達の学問をよく愛好する気風の中で、塾そのものが育て上げられて行った。それは流通経済の発達が庶民の生活圏を拡大し、それに伴って様々な分野に渉る広い分野の教養を身に付ける必要があったからである。 その為、当時の塾における教育課程も「和算、暦学、天文学、測量学」等の実利的な正に社会的要望を満たす教育内容であった。 |
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