70.新校舎の完成
大正二年二月の神田の大火災により、中猿楽町四番地・五番地にある順天中学の校舎と松見文平(第三代校長)邸宅は共に全焼した。これを契機として、松見文平は中猿楽町五番地に有る個人の邸宅を学園用地とし、私邸をこの地より移転させた。こうして中猿楽町四番地・五番地の全てが学校敷地として使用出来る様になった。 明治四年に大阪より順天堂塾を移転した当時は、中猿楽町四番地の百坪前後の敷地に校舎と宿舎を設置していたが、松見文平が中猿楽町五番地の土地を購入し、私邸を建築してからは、序々に五番地の中にも校舎を建設して行く様になった。その為、校舎の配置は決して機能的なものとは言えなかった。 神田の大火災後の校地における総面積は、中猿楽町四番地に百五十五・一五坪、五番地は三百五十五・二五坪の合計五百十・四坪となり、充分とは言えないものの、かなりまとまった敷地となり、校舎拡張計画が実施出来るようになった。そして、大火災から約三ヶ月後の五月十六日に、校舎新築願を東京府知事宛に提出している。 これにより、三階建ての校舎が完成した。普通教室十五室・特別教室二室、校庭三百五十坪、校舎延べ四百四十坪の設備を整え、尋常中学形態を一掃した新しい学校として生まれ変わり、神田中猿楽町に一際目立ち、その威容を誇っていた。 「神田の順天中学」という名声は、校長松見文平の教育・経営の両面に於ける卓越した手腕と姿勢によって、優れた生徒が入学して来た事に起因するものであり、その結果、世間にその名を知らしめたのであった。 大正二年の神田の大火災により、順天中学の刷新が計られた。新校舎の完成は、順天中学としての刷新と同時に、明治期の終了を宣言し、大正期の始まりを象徴するものでもあった。 明治維新より約四十五年間に日本は東アジアの一小国から脱皮し、清国やロシアの二大国を破り、欧米列強と同等の力を持った。日本の明治期に於ける発展は、他国にその例を見る事の出来ない程の急成長ぶりであったが、順天中学に於いても将に大正二年の校舎新築は、当時言論界を賑わせた「大正維新」「第二維新」の用語に匹敵する、順天としての維新であったと言える。 |
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